赤目四十八滝  滝トレイル

赤目四十八滝は、深野「ささゆり庵」から見渡せるパノラマ風景の山々渓谷に位置する深山幽谷の異次元空間です。ロードサイクリング車で行きは下坂の為40~50分、帰りは登り坂の為1.5 ~ 2.0時間。自動車であれば片道15 ~ 20分の距離。滝トレイルは全長約4kmで片道約90分、往復180分です。春夏秋冬、晴、曇、雨、雪のいづれのシーズンや天候でもその時々の渓谷トレイルが最高に満喫できます。コース途中には2か所の茶屋、2か所のトイレと5か所の緊急電話が設置されています。海抜250メートルのスタート地点から最終滝の490メートルの地点まで落差240メートルの低山地帯ですが、天候気候が厳しいときはそれなりのトレッキングトレイル装備をおすすめ。大抵の場合は観光地の渓谷ですので子供からご年配の方まで、幅ひろくお楽しみいただける手軽なコースです。

赤目四十八滝について

 赤目四十八滝は国の名勝に指定されてより、日本観光地百選の瀑布の部で第一位に当選した景勝地で、昭和45年(1970年)に室生赤目青山国定公園の特別地域に指定されている。

 赤目渓谷6kmの間には、大小無数の滝が連なり、それぞれ広い深い滝壺を持っているのが特徴である。前潤と呼ばれる渓谷一帯は延寿院の境内として、古くから保護されてきたため今なお、天然林が潤葉樹の多い美しい林相を保っており、四季折々に鮮やかな色彩をみせてくれる。

 滝にはそれぞれの名称がつけられており、修験道行者達の行場であったためか、仏教に因んだ名称が多い。 主たる滝は、行者滝、霊蛇滝、不動滝、大日滝、千手滝、布曳滝、荷担滝、夫婦滝、琵琶滝、巌窟滝などである。

延寿院の由来について (滝場への入り口に位置する)

 滝の入り口にある黄龍山延寿院は現在は天台宗に属すが、今から1300余年前、神変大菩薩(役の行者、本名=役小角、修験道のご開祖 634 ~701年)が開いたものと伝えられる。 役の行者が滝にうたれて秘法を修していたとき、不動明王(梵名アチャラ・ナータ(अचलनाथ [acala naatha])は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。)が赤い目の牛に乗って出現せられたと言われ、後にその不動明王を祀り赤目不動尊として行者の守り本尊とし、堂宇を建立し今日に至ったものと伝えられる。弘法大師空海(真言宗のご開祖 774 ~ 835年)もこの赤目山中の護摩窟で護摩を修し、妙法山に加法経を納められたと言われている。

 しかし、史実としては、今を去る900年前の承保年間(1074 ~ 1077年)、河内の人、金剛仏子正縁が夢の中で三所権現のお告げにより、名張の南方黄滝に生身の不動明王を観、後築智謀延増が赤目山中に千日籠居し、黄龍山聖王龍寺(又は、青黄龍寺)と号して南都東大寺の下寺として八坊を建立したと文献に記されている。

 いづれにしても、この地は平安期(794~1192年)から鎌倉時代(1192 ~ 1333年)の山岳仏教の道場として栄えていた。

 鎌倉時代より室町(1392→1491年)、戦国時代(1491→1573年)の世にかけて仏教思想の上に 弥陀の浄土思想が興り、従来よりの密教思想や龍神信仰と相俟って赤目の滝は、その深山幽谷で滝の数も多く、龍が棲むと言われる位の底知れぬ深澤があり、弥陀の浄土に生まれようとする浄土思想の実践にふさわしい道場であった。滝も「あみだが滝」とよばれており、48滝もこの阿弥陀如来48願からつけられたとも言われている。

 その後八坊伽藍も後三条天皇(1034 ~ 1073年) 勅願により再建されたが、天正年間の伊賀の乱(1581年)にこの滝が伊賀三大忍者の一人、百地三太夫(1512 ~ 1581年)をはじめとする伊賀忍者衆の修練場であったために、織田勢 (織田信長 1534 ~ 1582年、当時尾張国=現在の愛知県の天下人) によって灰儘に帰したのである。 わずかに残ったのは、鎌倉時代の石灯篭と菊の紋章入りの巨大な鬼瓦ぐらいであった。

 後に藤堂高次公( 1602~1676年 藩主藤堂家二代目)が不動院観音堂を建て、代々藤堂家の祈願所となった。 藤堂高次公は信仰心の厚い藩主で、寛永13年( 1636年)に癌を患い、多くの名医の治療を受けるも快癒せず憂鬱な日々を送っていたが、ある晩、夢枕に一人の老僧が高次公に向かって「汝の病は助かり難い病なれど、日頃の信心の徳によって、今汝を助けつかわす。夢うたがいことなかれ、我は当国の南の方角に住むものなり。」。。。。と言うと忽ち姿を消した。高次公は夢から覚めて、不思議に思い辺りを見ると、夢の中で自分の胸を刺した剣が床に安置されていた。家臣に南方の仏閣を調査させたところ、延寿院の不動堂の不動尊の右手に握っていた筈の宝剣が無くなっていた。夢で高次公の胸を刺した剣と合したところ、寸分の違いもなく、夢枕に立ったのは赤目の不動尊であることが判った。それ以来、この寺は藩主藤堂家の祈願寺となり、明治維新(1868年)まで庇護されてきたのである。

 その不動堂のご本尊は不動明王が安置されており、この像は伝教大師最澄(天台宗のご開祖、767 ~ 822年) 一刀三体の霊作と伝えられている。東京の目黒不動、目白不動と共に日本三体仏に数えられている。堂内には、聖天尊像、16善神、毘沙門天像、役の小角像が安置されている。

妙法山について(赤目の里と滝の中央に位置する霊山)

山伏行者、修験者の修法地で、平安(794~1192年)から鎌倉時代(1192 ~ 1333年)にかけては妙法山、七金山、砂金山などと呼ばれていた。

伝説によると、この山で、役の小角(役行者とも言われ修験道のご開祖、634 ~ 701年)が修法中、赤目の牛に乗った不動明王の生身の姿を見たのが、この山頂であったと言われ、修験者の聖跡であった。 この山上からは不動滝付近の巌山を眺めることが出来る。

平安中期( 901 ~ 1000年)と思われる頃、妙法経等の経が匿(かく)された場所となっていたが、鎌倉時代(1192年~)になって、ここから絵図の天像が天神化して出現、殊勝のご利益を与えたので、世を挙げて遠近から参詣する者が多かった。

また、その時代伊賀一国一郷の納経所となっていて、山頂には妙法堂が建っていたと伝えられる。 この納経は室町末期(1466 ~ 1507年)までつづき、江戸時代(1603 ~ 1867年)は行わなかったが、崇仰の念は変わらず、山頂の小堂も明治初年(1868年)まで存続していた。頂上には、巨大な方形の石にこのように刻まれている。

    慶長13年8月 (1608年)  権大僧都法印
    伊賀国妙法是孝君
    是四君  是永禄君

前記のように、この妙法山は信仰の山であり、霊山である。その位置も渓谷と赤目の里の中央にあって、付近一帯の核となり、髄となる山である。 妙法山の登口の峠を経塚峠とよんでいる。 また、前に述べた通り修験者が修業したとも言われる胎内くぐり岩も、この頂上にある。

ささゆり庵から赤目四十八滝
サイクリング  3D MAP

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