初瀬街道の概要
京・大和方面と伊勢を結ぶ初瀬街道の全長は約十四里十七町。現在の松阪市六軒から青山峠を越え、名張を経て初瀬へと至ることからその名がある。
現在の国道165号、あるいは近鉄大阪線に近いルートを通るこの道は、古くは「青山越」「阿保越」、参宮表街道、参宮北街道とも呼ばれ、古代には壬申の乱の際、大海人皇子が名張に至った道であり、また天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えた斎王が伊勢へと赴いた道である。
飛鳥時代、藤原京時代には、大和と伊勢神宮を結ぶ伊勢路の北路となり、平城遷都以後も奈良と伊勢を結ぶ幹線道路であった。
平安遷都以後、平安京から鈴鹿越えで伊勢に向かう官道ができ、また、伊勢国司・北畠氏が拠点を置いた伊勢本街道などが利用されるようになったため、初瀬街道は一時は衰退したが、伊勢参宮や伊勢からの初瀬詣が盛んになるにつれ、険しい山道の多い伊勢本街道よりも比較的平坦な初瀬街道が利用されるようになり、江戸中期から明治初期が最も賑わったという。
当時、参宮客は初瀬で一泊し、青山峠の麓の伊勢地宿(伊賀市)でさらに一泊、翌日は二本木(津市白山町)で昼食を取り、六軒で三泊目。大阪方面から伊勢へは片道4.5日の旅であった。
初瀬街道が伊勢街道から分岐する六軒は、伊勢音頭の道中唄で、「明日はお立ちかお名残惜しや六軒茶屋まで送りましょう。六軒茶屋の曲がりとでもみじのような手をついて…」と歌われているが、青山峠の麓の垣内宿では、「青山峠のふもとの八重坂までなりとおくりましょう。もみじのような手をついて(略)青山峠を越すときに、三つつぶの雨でも降ったなら、私の涙と思うてんか」という、多くの参宮の旅人が行き交った当時がうかがえる伊勢音頭が歌われていたという。
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