日本最古の薬猟郷

ささゆり庵のある宇陀市は1400年前の「飛鳥時代」から薬草で知られていました。 日本書紀には、推古天皇(日本最初の女帝で第33代天皇)即位十九年の5月(西暦611年)に宮中行事として、薬狩りを宇陀野(宇陀の大野)で行ったと記録されています。 これは、日本最古の薬草採取の記録と言われています。 薬猟の際、男性は薬効が高い、大きい鹿の角をとり、女性は薬草を摘みました。

薬猟の源流は、古代中国の長江中流域で5月5日に行われた雑薬を摘む民間行事や、 高句麗王室が3月3日に鹿・猪を狩る行事にあり、日本推古朝には、源流が異なる行事を併せて壮麗な宮中行事としたとされています。 宇陀が大和朝廷の猟場とされた一番大きな理由は、「神仙思想」との結びつきと考えられます。神仙思想とは、古代中国における民間思想であり、自らが不老長寿の人間、いわゆる仙人となることを願うものであり、この信仰に基づいた不老不死の薬が探索されました。「日本書紀」や「日本霊異記」には、宇陀に生えていた「芝草」や「仙草」を食べていた地元民が病気をせずに長寿を保ったという記述や天女となって空を飛んだという記述があり、この地が神仙境と意識されていたことが分かります。また、宇陀が「聖なる地」とされた理由には、宇陀に産する水銀(振砂)の存在が考えられます。3~4世紀に古墳や施朱(埋蔵儀礼)に用いられた大量の朱(振砂)は、不老不死の妙薬とされる仙薬の主たる成分でありました。しかし、猛毒である水銀を直接摂取することは不可能であるため、水銀の産する池の水、鳥獣の肉、野草、山菜、キノコ、果物などを摂取することで、間接的に水銀を摂取できると考えたのでしょう。古代からこの地では、ホメオパシーの伝統が流布され、今日に至っているのでしょう。

その影響としては、現存する日本最古の私設薬草園である「森野旧薬園」があります。 また、このような古代ホメオパシーに関係する古い歴史から、「ツムラ=旧津村順天堂」「アステラス製薬=旧藤澤薬品」「ロート製薬」「武田薬品工業=旧薬種業・近江屋の近江屋長兵衛は宇陀出身」「命の母」ブランドで有名な「笹岡薬品」「小太郎漢方製薬」「アイフ製薬」などの多数の薬業社を輩出したことは、江戸時代まで薬業が盛んであったことに由来する。

  宇陀市内では、古くから自生していた「大和当帰」という薬草を現在は多くの農家が生産しています。大和当帰はセリ科の多年草で、歴代の本草書に収載されている著名な生薬で主に婦人薬として使用されてきました。 鹿茸とは、雄鹿の生え始めの角を乾燥させたもので、古代中国では、鹿は不老不死の生き物で何千年も生きるという言い伝えがあり、中でも、 鹿茸は不老長寿の神薬として扱われてきました。

当庵では、「大和当帰」や奈良産の各種の薬草を利用したベジタリアンやビーガン料理等の夕食や、気分転換と疲れを癒す薬草風呂を提供しています。

また、コロナ対策として、ささゆり庵のハーブ園には、抗ウイルス性の高い薬草「オリーブ、エキナセア、ホーリーバジルTulsi、行者にんにく等々」を自家栽培しています。

(このページの“薬狩り”の4枚の画像について)

この画像は東京の星薬科大学の本館スロープにある大壁画で、1943年(昭和18年)5月に完成。宇陀における薬狩りの場面を描いたものであり、星薬科大学及び星製薬の創立者 「星一先生 ほしはじめ」の提案により、当時の星薬学専門学校設立3周年記念として制作された。星製薬株式会社のおかかえ画伯6名による時代考証研究ののち、推古朝時代における「薬狩り」「鹿茸狩り」を如実に表現した大作です。 当庵は特別に星薬科大学の許可を得て、この壁画で宇陀の地が日本最古の薬猟郷であることをご理解いただく機会を得たことに対し、ここに同大学への感謝の意を表したいと思います。 庵主 松林哲司

https://www.hoshi.ac.jp/site/gaiyou/hoshihajime.php(星一先生について)